昨日は三枚町から西谷駅まで歩きました。
途中聴いたのはグスタフ・マーラーの作品で、
1901年から1904年に作曲された「亡き子をしのぶ歌」である。
今回聴いたCDは、クリスタ・ルードヴィッヒのメゾ・ソプラノ、
アンドレ・ヴァンデルノート指揮、
フィルハーモニア管弦楽団の演奏による。
フリードリッヒ・リュッケルトの詩に基づくこの作品は、
マーラーが結婚する前に作曲した作品である。
リュッケルトは1836年に二人の我が子を失い、
その失望感から、この詩を書き、マーラーはこの詩に共感したのだが、
結婚後マーラーも愛する娘マリアを失うことになる。
第一曲「いま大陽は明るく昇る」は、
愛する子どもを失った父親の嘆きが歌われる。
自分に降りかかった不幸に苦悩しながらも、
一方太陽はいつもと変わりなく輝いていることを書いている。
オーボエとホルンがお互い絡みあう前奏に続き、
弦楽器とハープの伴奏に乗って歌われるこの歌は、
絶望感を表現した抑制のとれた音楽で示される。
第二曲「いま私にはわかるのだ」は、
父親の不安定な心情が歌われる。
子どもたちは今や星としてまたたいている。
弦楽器により悲しみの情感と空虚感が示され、
ハープが浄化された気持ちを示しているようでもある。
ワグナーの「トリスタンとイゾルデ」の音楽を思わせる曲である。
第三曲「お前のおかあさんが」は、
母親と一緒にくっついて歩く子どもの姿を回想し、
その時最初に見るのは母さんではなくておまえ(子ども)なんだと、
歌うのだが、その自分の喜びであった光が失われたことを嘆く。
イングリッシュホルンとファゴットの掛け合いで始まるこの曲は、
歌とそれに絡まるオーボエなど管楽器によって、
愛する子どもを失った悲しさ・心細さが表現されている感じでもある。
愛する子どもへの気持ちは後半情熱的な歌で示される。
第四曲「よく私は考える」では、子どもたちは、
ただちょっと外にでかけただけだということばが繰り返され、
そう思いこんで、死という現実を忘れようとする親の心情が歌われる。
長調と短調と交互に現れることで父親の不安な心情が表現される。
第五曲「こんなひどい嵐の日には」は、
嵐の日に子どもを外に出してしまったことの後悔が、
繰り返し歌われ、その結果帰らぬ人となった子どもたちの
冥福を祈るように最後は穏やかな音楽となる。
前曲までのルードヴィッヒの歌唱と管弦楽の伴奏は、
まあまあいいのだがこの曲では冒頭の嵐の音楽のところで
管楽器の音が外れたりし、少し残念な部分を感じさせる。
ヴァンデルノート盤のテンポは悪くないのだが、
ここでの管弦楽の表現は物足りない印象を受ける。
最後は子守歌のようにやすらかな音楽になり、
ホルンが鳴り響き、チェレスタとハープにより
彼岸の世界を思わせる音楽となり、静かに終わる。